すべて準備は整いました。ゴールデンウィークも終わり、あとはチケット待ちになりました。その間、実際の装備でテスト走行も行っていました。O氏から電話があったのは、5月半ば過ぎです。
「お待たせ。遅くなったけど、チケット取れたぞ。1週間後の5月29日、大韓航空機 成田発ロス行だ」
「うん。5月29日だな。それでチケットはいつもらえるんだ」
「いや、チケットは、当日空港のカウンターで受け取るんだ。俺が一緒に行って手続きするから、心配はいらない」
「そうか、ありがとう。じゃあ、それで頼むよ」
チケット代金は10万円でした。片道チケットが入手できないので、往復チケットの片道をキャンセルしたそうです。
いよいよ1週間後に出発です。それからは何となく落ち着かない日が続いたのを覚えています。
無事に帰るから
姉が、成田線の起点の我孫子(あびこ)に住んでいたこともあり、出発の前日は母親と一緒に姉の家にやっかいになることに。昼の便ということもあり、その夜は姉家族によるミニ壮行会となりました。早くもおみやげの催促まで出る始末でした。
翌日、O氏と待ち合わせ、母親と姉家族そして私を含めた7人で成田空港にむかいました。前夜とは違って、電車内では静かに時間が過ぎていきました。
空港ロビーに着くと、O氏がカウンターですべての手続きを済ませてくれました。預けた荷物は〈取扱注意〉の貼られた輪行袋ともろもろ入った四つのサイドバッグを束ねた計二つ。私は、肩から下げた手荷物のフロントバッグが一つと、急に身軽になりました。
搭乗開始までのしばらくの間、お茶を飲みながら雑談をしていました。母親はやはり私のことが心配なのでしょうか、口数が少ないようでした。やがて、搭乗開始の時間になりました。私は努めて明るく皆とあいさつを交わし、最後に握手をしながら一連のお礼をO氏に伝えました。
搭乗口に向かう階段を降りていく私のうしろから、母親が私の名を呼ぶ声が聞こえてきました。右手を軽くあげて応えましたが、振り返ることはできませんでした。
「大丈夫。きっと無事に帰るから」
この先は、ロスから始まるアメリカ大陸横断です。ロッキー山脈縦走のようすなどを紹介したいと思います。
1982年出発前に我が家にて、父・母・当時小学校2年生だった自分とHさんでサヨナラ晩御飯を食べた記憶があります。低学年だった当時の自分には凄さが良く分かってなかったと思います。
父が自転車のカギとして使うようにと鉄製の手錠をあげようとしたんですが、犯罪者と間違われる可能性があるからもって行くのはやめておくというやり取りをしたのを憶えています。そのときは持っていけば良いのにと思いましたが、いまとなっては、なぜ父は手錠なんかあげようと思ったのか不思議です。
今ちょうど小学校2年生の息子がいますが、当時と今では世界はずいぶんと小さくなったなと感じます。
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Gen-Sho-Jiさん、コメントありがとうございます。かなり前のことをよく覚えていますね。自転車の旅のブログは、この先も続きますので、チェックしてみてください。
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