鶏で思い出したので、古くて恐縮ですが子どものころの話をさせてもらいます。私には生きた鶏を見ると、今でも思い出す鮮烈な経験があります。
昭和30年代まで都内でも鶏やヤギを飼う家庭が少なからずありました。私も近所で飼われていたヤギに紙切れを食べさせたり、産みたてのまだ温かい鶏の卵を手にした記憶があります。
ヤギを飼っていたのは、食肉というより、搾乳のためでした。戦後しばらくは、まだ食料事情はよくありません。産後の肥立ちがよくなく、母乳の出の悪い母親もいました。
そんな時は〈もらい乳〉といって乳の良く出る母親から母乳をもらいます(最近では感染症のリスクと母親の精神的ケアのため、あまり薦められていません)。〈もらい乳〉もできないない場合は、ヤギの出番になります。
ヤギの乳は人間の乳の成分に近いといわれ、よく飲まれていました。味がイマイチで、沸かして砂糖を入れて飲んでたような……
戦後、日本国内で再び粉ミルクが生産されるのは1951年になってからです。私が生まれたのは49年、まだ粉ミルクのないころになります。小学校に入学するとひとクラス40-50人、クラスに一人ぐらい「ヤギの乳で育ったんだ」と自慢気に話す子がいたもんです。
鶏の話に戻します。こちらも小学校1-2年ときの話です。
友だちの家で、卵を産まなくなった鶏を食するために締めることに。女の子を含めて遊び仲間数人で見守ることになりました。庭には太い丸太を輪切りにした腰掛けが、友だちのお父さんは、まな板がわりのその腰掛けの上に左手で鶏の頭を押さえて横にしています。
その右手にはナタ、友だちが鶏の体をしっかり(?)押さえ「イチ、ニイのサン」の掛け声とともにナタで鶏の首を……本来なら絶命するまでの間、血を抜くために鶏の足を持ってぶら下げていなければなりません。
その後、熱湯につけ、羽根を抜いて肉をサバく段取りなのですが、その瞬間、友だちは暴れる鶏を手から離してしまいました。間が悪いことに鶏の足をしばっていなかったので、鶏の頭だけがお父さんの左手に残りました。
羽をバタつかせながら頭のない鶏が私のほうに勢いよく向かってきます。あわてて避けましたが、子どもたちの叫び声のなかで頭のない鶏は庭中アチコチぶつかりながら走り回って暴れていました。
時間にしてほんの1-2分のできごとですが、それが子ども心に強烈な思い出として今も残っているのです。
一方、近所で飼われていた私と仲良し(?)のヤギがいつの間にか居なくなりました。我が家の食卓にヤギ肉料理が並んだのは、その2-3日後のことでした。確か、あまりおいしくなかったような……