チュニジアは、農業と工・鉱業、そして観光業とバランスの取れた産業形態の国です。
私が旅行した1980年代から90年代にかけては、チュニジアは治安がよく物価が安いこともあり、ヨーロッパを始め世界各国から観光客が訪れていました。私もチュニスの街で多くの外国人観光客を見かけました。
不安材料は隣国リビアとあまりよい関係でなかったことぐらいです。西欧化を進めるチュニジアに対し、フセイン独裁政権のリビアはイスラエルを国家として認めないなどイスラム色の強い国でした。
1980年、リビア国内で訓練を受けたチュニジア人反政府組織が、チュニジア国内の地方都市でテロ事件を起こしました。また、85年には、リビア軍がチュニジアとの国境に集結して威嚇行動を起こしました。
1987年、初代大統領ブルギバは、自ら首相に任命したベン・アリに無血クーデターをおこされ失脚します。その後、大統領に就任したベン・アリの政権は20年以上も続き、しだいに腐敗していきます。
〈ジャスミン革命〉から〈アラブの春〉へ
2010年12月、チュニジアの地方の町で事件が起こります。露店商の青年が取締り警察官とトラブルになり、抗議の焼身自殺をはかりました。そのようすを撮影した彼の親族が、ネット上に映像をアップしました。
その反響は大きく、若者の高い失業率、高騰する物価、長期にわたる腐敗した政権など、日頃の不満も重なり、一気に反政府デモがチュニジア各地で巻き起こっていきます。
ベン・アリ大統領は鎮静に努めますが、民衆の反政府運動は一向に収まらず、軍に離反されたのを機に、翌11年1月にフランスへ亡命を計りますが断られ、やむなくサウジアラビアへ亡命します。
多くの犠牲者も出ましたが、一連の事件はチュニジアの革命として位置付けられ、チュニジアを代表する花のジャスミンにちなんで〈ジャスミン革命〉と名付けられました。
この革命は、北アフリカから中東へと飛び火をし、エジプトやリビア、ヨルダンそしてシリアと同様の事態が起こり、ムバラク大統領は失脚、カダフィ大佐は殺害されます。これら、一連の市民による反政府運動を〈アラブの春〉と呼んでいます。
残念なことに、その後チュニジアでは前述のバルドー国立博物館での観光客に対するテロなど国内各地でイスラム過激派によるテロが起こり、治安の不安定さが増しています。
現在、外務省の海外安全情報によるとチュニジアはレベル2と3、レベル3は渡航中止勧告。早くあの頃の治安のよいチュニジアに戻ってほしいものです。