テッサロニキのユースホステルにチェックインし、シャワーを浴び、洗濯を済ますと早々に街へ出ることに。観光というよりブラブラしてみたかったのです。
テッサロニキは紀元前のマケドニア王国時代から栄えた街です。現在もテッサロニキを中心とした周辺地域を中央マケドニア地方と呼んでいます。
旧ユーゴスラビアから独立したマケドニア共和国の名の由来も同じですが、ギリシャ人はマケドニア共和国と呼びたくないようで、スコピエと共和国の首都の地名で呼んだりします。
理由は国土の一部だけがかつてのマケドニア王国だったことや、ギリシャ語を話さないスラブ系の人たちが大半を占めているからのようです。
港町テッサロニキは古くからローマとコンスタンチィノープル(現イスタンブール)を結ぶ街道の要衝として、また南バルカンの玄関口として発展してきました。要衝の地ゆえ幾度となく帰属が変わります。そんな時代とともに街は変遷を重ねてきました。
1900年ごろの市内はギリシャ人、ユダヤ人、トルコ人が共存しており、ユダヤ人が6万人以上と半数以上を占めていました。
1922年、ギリシャはトルコとの戦い(希土戦争)に敗れて領土を失います。
後に両国間で住民交換を行い、ギリシャ正教徒100万人とイスラム教徒50万人がそれぞれの国に戻ります。
テッサロニキに留まったユダヤ人ですが、第二次世界大戦中にナチスドイツによって4万人以上も強制収容所へ送られてしまいます。その後、多くは安全な海外に生活を求めて流出し、現在テッサロニキのユダヤ人は千人ほどになってしまいました。
港に近い Ladadika (ラダディカ)地区がテッサロニキで一番の繁華街だと聞いて向かってみました。人出の多い土曜日の夕方、開いてるお店も結構あります。開いていた小さなタベルナ(食堂)へ入ってみました。
シエスタと同じように、ギリシャの食事時間はスペインとよく似ています。昼食は午後2時過ぎ、晩ご飯は8時過ぎに始まります。そのため夕方4時ごろに一旦お店を閉め、夜になって再び開けるタベルナが多いのです。
客席数20席ほど、先客1組二人。ギリシャ語のメニューのわからない私は、いつもほかの客が食べている料理を指差して注文していました。
店主でしょうか、思案している私の腕をつかむと、そのまま調理場まで連れて行き「さあ、どの料理が食べたいんだ」と(?)聞いてきました。目の前には数種の調理済み料理と火にかけられた大鍋が三つ。
「グリルド・フイッシュ?」と尋ねると、「時間がかかるよ」と返事(?)が返ってきました。客の少ないこの時間帯、一旦グリルの火を落としたようです。
注文したのは、鍋の中で煮込まれていたミンチボール。付け合わせに野菜サラダ、フライドポテト、パンそしてビールです(追加でワインも)。イタリアではオリーブオイルの天ぷら料理に失敗しましたが、特にオリーブオイルで揚げたポテトは気に入りました。
食後、店主にひと言「ポリ・カラ(ベリーグー)」と告げて店を出ました。もう少しブラブラしてユースに戻るつもりで歩いていると、人だかりが目に入りました。
何軒か映画館が並んでいます。[そうだ、あしたは久しぶりに映画でもみるか]