私が生まれ育ったのは東京郊外の杉並、町に三つの映画館がありました。うち二館にはスクリーンが二面あり、それぞれ違う配給元の映画を上映していました。一館は東映のみ、一館は洋画と東宝、もう一館は日活・松竹・大映でした。
棲み分けのためでしょうか、配給五社にはそれぞれ得意分野があり、東映はチャンバラ映画、東宝は会社・駅前・若大将シリーズなどコミカルな映画、日活は青春活劇、そして松竹と大映はほのぼのとした作品や文芸作品を得意としていました。
小学校の低学年のころ、東映のチャンバラ映画をよく見ました。理由は親が映画館のオーナーと知り合いで、今考えると、ずいぶんのどかなものですが、子どもの私はすべて顔パスで映画を見ていたのです。
映画に行くからと母親から小遣いをもらい、握った10円玉を中二階の休憩ロビーの売店で三角形のセロハン小袋に入ったピーナッツに換えます。さらに階段を上がり、二階の最前列に陣取って映画を見ていました。
片岡千恵蔵演じる遠山金四郎[きんしろう]や市川右太衛門[うたえもん](北大路欣也の父親)演じる旗本退屈男[はたもとたいくつおとこ](劇中名は早乙女主水之介[さおとめもんどのすけ])がうしろから悪役の侍に切られそうになると、館内のあちこちから声がかかります。
「ダメーッ!」「キャー!!」「うしろだ、うしろ」
金[きん]さんも主水之介[もんどのすけ]も振り向ざまに悪役を一刀両断、館内は歓声とともに大きな拍手。私も大喜びした一人です。「遠山桜だー」「この眉間[みけん]の三日月傷が」などの決めぜりふをいまだに覚えています。
1950-60年代にかけて隆盛をきわめた映画界ですが、やがてテレビその他の娯楽の進出により徐々に陰りが見え始めます。そんななかで、お色気映画と呼ばれるジャンルだけは客足が落ちませんでした。
そこに目をつけたのが客足の落ちた邦画五社で、路線をお色気とバイオレンスに変換したのです。「温泉芸者」「大奥」「団地妻」「女賭博師」「実録」「任侠」「座頭市」「悪名」などなど、人気シリーズへ。日活は「ロマンポルノ」に絞ります。
しかし、それらも時代の流れにさからえず、やがてそれぞれアダルトビデオとVシネマへと変遷していきました。
一方、初期のお色気映画と呼ばれたものの制作元は、新東宝(戦後に東宝と別れ、のちに倒産)を追われたスタッフが立ち上げた大蔵映画や小さな独立プロでした。
私が高校生になったころ、お色気映画はピンク映画と呼ばれ、パチンコと同じく高校生と18才以下は入場禁止でした。しかし、18才になると欲望を抑えきれず(?)卒業を待たずにピンク映画を見に行きました。
もちろん私服、大人っぽく見せるために無精[ぶしょう]ひげも生やしています。映画館の前で二度三度ウロウロし、意を決して入館。館内に初めて感じる何やら不思議な雰囲気が漂っていたのを覚えています。
小さなプロダクションが制作するピンク映画は、予算が少ないためストーリー展開中は白黒で映し出されます。ただ、その辺は心得たもので観客が望む裸やSEXシーンになると、急にカラーになるのです。ただし「肝心な」部分は花瓶や行灯[あんどん]で隠され、多少の不満が残ります。
外国のポルノ映画と比べ日本のピンク映画のすごいところは、ストーリーや映画の持つ雰囲気や情緒がしっかり感じられることです。
それは監督や脚本家などスタッフが元々大手の映画会社に所属していて、作品(映画)に対するこだわりを持っていたからでしょう。もちろんすべてのピンク映画がそうではなく、多くは「三流」ピンク映画です。
ピンク映画はほとんど三本立てで上映していました。その内たいがい1本は全編カラーになっていました。これまた心得たものです。
私が好きな女優は〈水城[みずしろ]リカ〉嬢(別名 水野よし子、若月ひとみ)。初めて見た全編カラーの主演女優だったからかもしれません。まぁ、初恋みたいなものでしょう。ご同輩のなかには懐かしい名前だと思う方も少なからずいるはずです。
後年、テレビドラマで演技する彼女の姿を見て、嬉しいような恥ずかしいような気持ちになりました。
何だか今回は、本来のギリシャの旅から外れてしまいました。単に昔の映画の話をしたかったのかも。