例によって自転車で街に出てみました。ベオグラードは至るところに小さな公園があり、人々の憩いの場になっています。平日の朝だというのに公園内ではワインやビールを片手に談笑する人たちの姿も見られます。
カフェの店先ではコーヒーカップを前に語り合うカップルの姿も多く見られました。
[ヘ~ッ、社会主義国だけど、結構自由にやってるんだ。いいんじゃないの」
ベオグラードのメインストリート、ミハイロ通りを北西に行くと、受付の青年が教えてくれた Kalemegdan(カレメグダン)公園があります。そして丘の上には有史以来幾度となく破壊され修復されてきたベオグラード要塞があります。下を流れるドナウ川の写真を撮ってみました。
写真の右がドナウ川、左から流れ込むのがサバ川です。写真ではわかりにくいのですが、中洲の向こうにオーストリア=ハンガリー帝国が統治していた Zemun(ゼムン)の街が広がっています。
その左に見えるビル群は高層住宅です。まさに川を挟んで戦いの最前線となっていた場所です。もちろん、ゼムンの街は高層住宅とともにベオグラードの街の一部となっています。(この地も後にNATO軍の空爆を受けます)
ヨーロッパの火薬庫
「ヨーロッパの火薬庫と呼ばれるバルカン半島」は、ニュースなどでよく耳にする言葉です。その半島を象徴するのがユーゴスラビアではないでしょうか。
バルカン半島はもともと多民族・多宗教・多言語と複雑な地域です。古くからローマ帝国、ビザンチン帝国、オスマン帝国、ハプスブルク帝国など、多くの侵略にあっていました。19世紀から20世紀にかけてはトルコに勝利したロシア帝国が本格的に南進を始めます。
南スラブ統一をめざすセルビアに対し、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに隣接するボスニア・ヘルツェゴビナを併合しました。セルビアの後ろにロシア、オーストリア=ハンガリーの後ろにドイツの影が見え隠れしています。このころからバルカン半島は〈ヨーロッパの火薬庫〉と呼ばれるようになったのです。
歴史の授業で習った今から約百年前の1914年、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボで起きたオーストリア皇太子夫妻暗殺事件(サラエボ事件)へとつながります。
暗殺を受けてオーストリアはセルビアに宣戦布告をし、「三国同盟」「三国協商」など、複雑な国際状況のもと多くの国を巻き込む第一次世界大戦へと拡がって行ったのです。
セルビアは第一次世界大戦後にオーストリア=ハンガリー帝国から独立したスロベニア、クロアチアともに三国の名を冠した王国を建国し、のちの〈南スラブ人の国〉を意味するユーゴスラビア建国の礎となったのです。
拡大路線をとるドイツの圧力とドイツに対する経済依存の高さにより、やむなく日独伊三国軍事同盟に加盟したユーゴスラビアは、中立を唱える自国軍のクーデターにより国内が混沌とするなか第二次世界大戦に突入していきました。