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ぐるっとヨーロッパ: Yugoslavia(10) その後のユーゴスラビア

第二次世界大戦のとき、ナチスドイツの侵略に抵抗し阻止したのがチトー(1892-1980)率いる多民族で構成されたパルチザンです。彼らはソ連の力を借りることなく国を守ったのです。

チトーは〈救国の英雄〉として国民から多くの支持を得、亡命政府に代わってスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの六つの国で構成される〈ユーゴスラビア社会主義連邦共和国〉の初代大統領に就任し、後に終身大統領になります。

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日本でもチトー大統領はニュース等で取り上げられ、よく知られていました。ソ連とは一定の距離を置き、西側ともオープンに貿易をするなど〈非同盟と労働者の自主管理〉を柱に六つの共和国それぞれの自主性を重んじて連邦国家をまとめていました。

私が旅行した1983年は、チトーが亡くなってて三年後です。当時、ユーゴスラビアには絶大なカリスマ性を持った苦労人チトーの提唱した理想国家に対する想いの余韻(?)が残っていたようです。私の目には平和なユーゴスラビアしか映りませんでした。

80年代も後半になると、国内経済を支えていた統一市場が共和国間の思惑で廃止され、インフレや経済危機が叫ばれ始めます。

長きにわたり貿易収支の赤字やインフレが続くなか、91年に今後のユーゴスラビアに対する六ヵ国協議〈ユーゴ・サミット〉が開かれ、結局物別れに終わります。ここにおいて、労働者の自主管理の名のもとに集まった共産主義者同盟、社会主義連邦共和国が終わったのです。

もともと経済力格差のある多民族・多宗教・多言語の国家の集まり、チトーのカリスマ性を失い、なるべくしての結果なのかもしれません。

90年、クロアチアの首都ザグレブで行われたベオグラードのチームとのサッカー試合でファン同士の暴動により両国間の緊張も一気に高まります。91年にスロベニアが独立すると、ユーゴスラビア全域を巻き込む独立紛争〈ユーゴスラビア内戦〉へと突入して行ったのです。

91年から95年のクロアチア紛争。そして、もっとも酷かったのが92年に始まったボスニア・ヘルツェゴビナ紛争です。ボスニア・ヘルツェゴビナ自体が建国当初から多民族国家だったこともあり、泥沼化してしまった紛争は数年に及び、数万人の死者を出しました。

墓地が足りずにサラエボのオリンピック施設の多くは犠牲者の共同墓地となりました。平和の象徴オリンピックの施設も当時の紛争の爪痕が残されたままです。

このボスニア・ヘルツェゴビナ紛争ではセルビアが悪者にされていますが、これには異論もあるようです。ボスニア政府がアメリカの広告代理店と組んで、反セルビアに導くよう操作したのではとも言われています。

たとえ夫婦であっても異国・異民族の問題で離婚を余儀なくされ、もとの国に戻り家族バラバラなるケースも多くありました。友達関係にも亀裂が入り敵味方に分かれて戦うことにもなってしまった。それがユーゴスラビア内戦でした。

その後、マケドニアが独立。最後に残った二国、セルビアとモンテネグロのユーゴスラビア連邦共和国も、06年にモンテネグロが独立し、ユーゴスラビア(南スラブ人の国)という国名は完全になくなってしまいました。

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