ノビ・サドの街に戻ると、ドナウ川沿いの要塞が見えてきました。ブランコの話では何世紀もの間、支配者が変わっても外敵から街を守ってきた要塞だそうです。
街の中心スロボデ広場には立派な教会が建っています。見るからにカトリック教会です。もちろん他に正教会、イスラムのモスク、ユダヤのシナゴーグも目にしましたが、ユーゴスラビアもここまで北にくるとカトリック系の教会が目立つようになりました。
ブランコはクリスマス・カード以外にも、自分が旅行に行った国内のリゾート地のパンフレット等を手紙と一緒に送ってくれました。封筒の裏面と手紙の最後に必ずカタカナでブランコと書いてあります。よっぽど気に入ったようです。
ブランコらしいのが、手紙で欲しい物を送ってくれと頼んでくることです。時には足のサイズとメーカー指定のジョギング・シューズの注文も。さすがに彼のすべての注文に応えるわけにはいきませんでした。
当時、ユーゴスラビアには徴兵制度があり、15ヵ月間、陸海空いずれかの軍で兵役につく義務がありました。現在、セルビアでは徴兵制が廃止されていると思います。
ブランコからの手紙にはユーゴスラビアでは19才になると軍隊に行かなければならない、とありました。2月から3月にかけての19才最後の一ヵ月間、陸軍に入隊し、今は休暇を取って自宅に戻っていると書いてありました。どうやら彼は二十歳の誕生日を家族と迎えたかったようです。残り14ヵ月の兵役のために再び軍隊に戻る、と続いていました。
その後も何回かブランコとの手紙のやり取りは続きました。カタカナのブランコのサインとともに「いつか、日本に行きたいと思っている。その時は頼む」と、彼らしいコメントもありました。しかし、ユーゴスラビア内戦を機に手紙のやり取りは途絶えてしまいます。
前回の<EXIT>フェスティバルと前後しますが、コソボ紛争末期の1999年、アメリカ軍を中心とした NATO 軍はセルビアに空爆を仕掛けます。
石油関連施設やドナウ川にかかる数本の橋を破壊するため、ノビ・サドの街も数回にわたり、首都ベオグラードと同じように空爆を受けました。ブランコの住んでいたフォトグとノビ・サドは10数キロしか離れていません。被害がなかったことを祈っています。
日本はコソボを独立国として認めていますが、国連加盟国のなかにはセルビアの主張を聞き入れ、独立国としてのコソボを認めない国もあります。コソボ問題が<ヨーロッパの火薬庫>としてくすぶり続ける火種にならぬよう願いたいものです。
日本では、何となく悪者っぽいイメージのセルビアですが、親日家も多く、東日本大震災のときにはいち早く多くの義援金を送ってくれました。
この日は E5号線から少し外れてキャンプ地探し、野良仕事を終えたお爺さんに頼んで仕事場横の林にテントを張らしてもらいました。お爺さんの飼う何匹もの犬がうるさく吠えますが、ここは我慢です。
道中、お婆さんからもらったチェリーがこの夜のデザートになりました。ハンガリー国境まであと40キロほどです。