美しく自由奔放な少女エリザベートは15才の時にオーストリア皇帝に見そめられ、妃としての教育を受けます。その帝国史の先生こそ、彼女が初めて接したマジャル人でした。歴史を学びながら共和国の何であるかを知ることになります。
16才で妃となったエリザベートは義母の皇太后と折り合いが悪く、ハンガリーの離宮で過ごすことが多くなります。やがてオーストリアの意に反して次第にハンガリー独立運動に理解を示すようになりました。
第二次世界大戦末期、ドイツ軍とハンガリー軍は、侵攻してきたソ連軍(ルーマニア軍を含む)とブダペストの攻防戦を繰り広げます。この〈ブダペスト包囲戦〉は、市民にも多くの被害をもたらしました。
ソ連軍に圧倒されペスト側からブダ側へ撤退せざるをえなかったドイツ軍は、ハンガリー軍の制止も聞き入れず、当時ブダペストにかかっていた五つの橋をすべて破壊しました。
この時、ゲッレールトの丘は枢軸国側の防衛陣地の最前線となりました。ドナウ川をはさんで攻防戦が繰り広げられたのです。ゲッレールト温泉も被害を受け、大戦後に再建されています。
2週間以上続いた攻防戦はソ連軍の勝利に終わり、2ヵ月後にオーストリアのウィーンが陥落します。ブダペストに侵攻してきたソ連軍は兵士、将校を問わず虐殺、略奪、婦女暴行を繰り広げたともいわれます。
エリザベート橋の計画が持ち上がったのが1898年、くしくもエリザベート皇后がスイスのジュネーブでイタリア人青年に暗殺(享年60才)された年でした。1903年に橋が完成すると暗殺されたエリザベートを偲んでその名が付けられました。
大戦後、エリザベート橋を除く橋は1950年代初めに昔のままのフォルムで再建されました。ただ、予算の都合でエリザベート橋は最後まで再建できずに残されました。橋が完成したのは1960年、以前の重厚な橋の面影はなく、近代的なスッキリした白い吊り橋に生まれ変わりました。
他の橋や道路が共産圏特有の諸事情により名前がコロコロと変わるなか、エリザベート橋だけはその名を変えることはありませんでした。エリザベート皇后がハンガリー国民に好かれていた証しかもしれません。
この橋のライトアップには日本も関与しています。2009年ハンガリーと日本の国交50周年記念事業として、ハンガリーが約7千万円、日本が約6千万円の事業費を提供しています。エリザベートの数奇な生涯は宝塚歌劇団の人気ミュージカルにもなっています。
エリザベート橋を渡って東岸のペスト側へ。次なる目的地は市民公園です。