ブダペストはよく〈東欧のパリ〉〈ドナウの真珠〉といわれます。
こういうキャッチフレーズって誰が考えるのでしょうか。小説の引用? 旅行代理店のライター? 思い付きのフレーズが定着してしまったものもあるような気がします。
この時、私はまだパリ訪問前ですから比較できませんでしたが、引き合いにされる本家に勝るものに出会ったことはありません。前の晩の帰路、ドナウ川沿いから眺めた街灯りが優しく川面を照らようすは、ドナウの真珠と呼ぶにふさわしいと感じました。
エリザベート橋から地図を頼りに目印の広場をめざします。
橋をわたるとすぐに教会、その先を左折して道なりに数ブロック進むと目的の〈エンゲルス広場〉にでました。広場はドイツの社会思想家エンゲルス(Friedrich Engels 1820-95)に因んだものでしょうが、今は〈エリザベート広場〉と呼ばれています。
エンゲルス広場から北東方向へ一本道がのびています。交通緩和のためと街の中心と Varosliget(ヴァーロシュリゲッド=市民公園)を結ぶために造られたメインストリート、Nepkoztarsasag ut.(ネップケスタールシャシャーグ=人民共和国通り)です。
市民公園とメインストリートの二つともややこしい名前ですが、当時のブダペストの市内地図からスペルを書き写してみました。
このメインストリートは、1876年に5年の歳月をかけて完成し、〈アンドラーシ通り〉と名付けられました。道路計画の中心人物アンドラーシ・ジュラにちなむものです。彼は二重帝国時代のハンガリー初代首相でオーストリア皇后エリザベートと親交があったといわれています。この通りの名称は大戦後にたびたび変わりました。
1950年、〈スターリン通り〉と改名。56年、講和条約の締結後も恒久的な駐留を認めさせたソ連軍やソ連寄りの政治に反発したハンガリーの学生たちがデモを起こします。呼応して市民も立ち上がると、ソ連は鎮圧軍を派遣しました。〈ハンガリー動乱〉です。
市民の死者17,000人、難民20万人といわれます。このとき決起した若者を称えて〈マジャル青年通り〉と改名。翌57年に人民共和国通りと再度変えられました。
その後、80年代後半に起こったペレストロイカ(再構築の意)の波により東欧の社会主義国は次々と崩壊していきます。89年、ハンガリーにも政変が起こり、翌90年に人民共和国通りは完成当時の名称アンドラーシ通りに戻されました。
アンドラーシ通りの地下には、ロンドン、イスタンブールに次ぐ最古の地下鉄1号線が走っており、2002年に世界遺産〈アンドラーシ通りとその地下〉の指定を受けました。〈ドナウ河岸とブダ城〉は1987年に指定されています。