オーストリアへ向けて出発の朝、受付の青年が、
「地図ではありませんが、これはハンガリーの観光案内です。差し上げます」
「えーッ、こんな立派な観光案内いいよ。もうブダペストを出発するし、たぶん使わないと思うし」
「使わなくても構いませんよ。記念にしてください」
「そう? じゃ、遠慮なく。クスヌム(ありがとう)」
彼が観光案内書をくれたのには訳があります。初日、市街図を頼りに宿を訪ねた際に自転車旅行者にとってお粗末なハンガリーの地図を彼に見せ、「この地図頼りに自転車で走るのは大変だよ。何かいい地図ないかな?」と、ボヤキながら聞いたからです。
「ここにはありません」そっけない答えが返ってきましたが、おそらく気にかけていたのでしょう。地図の代わりが観光案内書になったようです。この案内書は数ページにわたる写真入りの立派なものでした。使わないとはいえ、捨てるわけにもいかず、旅の途中で他の荷物と一緒に日本へ送りました。
ブダペスト滞在は2日間。本来ならば「しゃれたレストランで生演奏の民族音楽を聞きながら、おいしいハンガリー料理を、これまたおいしいワインとともに食する」やってはみたいのですが……[なにぶんお金がねぇ]
再び E5号線を西へ、ウィーンへ向けて出発です。ウィーンもドナウ川沿いに開けた街です。ベオグラードからブダペストそしてウィーンと私は知らず知らずにドナウ川をさかのぼる旅を続けていたようです。
ブダペストを発って40キロほど。 E5号線の行く手のようすが変わり、ハイウェイのようです。道路案内の文字は理解できませんが、何となく自転車の乗り入れはできそうにない気がしました。
躊躇しているところに、タイミングよく(?)バイクに乗ったハイウェイポリスがやってきました。「ここから先はダメ! ハイウェイ沿いの道を行け!!」「オーケー」と返事をしたものの、不安です。というのも30キロほど北に一本、40キロほど南に一本あるだけで地図にその他の道が載っていないのです。
ハンガリーは日本の4分の1ほどの大きさです。隆盛期には現在の倍以上の国土を保有していましたが、戦争に負けるたびに分割、割譲されて段々小さくなったのです。一時は国民の半数が国外に取り残される事態も起こっていました。[いくら小ちゃいからといって、この地図じゃ無理があるよ。やっぱブダペストで自転車用に使える地図をちゃんと探しとくべきだった。失敗した]
離れたり近づいたりするハイウェイを気にしながら地図にない道を走ることになりました。曲がりくねった道は時に線路を横切り20キロほど走ったでしょうか、 幸いにも再び E5号線に合流しました。ここからは自転車も走れそうです。
この日のキャンプ地は Tatabanya(タタバーニャ)の街の近く。らしい? それしかわかりませんでした。