オーストリアの思い出は、何といっても親切に接してくれたフランツ爺さんです。今でもテレビでウィーンの街の映像や日本を旅行中のオーストリア人のインタビューなどを目にすると、彼のことを思い出します。
ブログでは一貫してフランツ爺さんと書いていましたが、それは歳に似合わずオチャメな彼に対して親しみを込めてのことです。出会いはハンガリーのキャンプ場、初対面の時から酔っぱらうほど大酒をくらっていました。馬が合うというヤツですね。
その夜の私の日記には「フランツ爺さん」「オッさん」とあります。それが翌日には「フランツおじさん」、それ以降は「フランツさん」と記されています。彼の人となりに接するにつけ、自然に変化したのです。
フランツさんの思い出といったら、あの夜、財布から取り出したボロボロの紙切れとピストン運動です。そして、その紙切れが何なのかという疑問がどうしても残っていました。
当時、私はしらふのフランツさんに面と向かって聞くのをためらっていました。酒の上での話ですし、酔っぱらっていて記憶にないかもしれません。変に恥ずかしい思いをさせてはと思い、そのままになっていました。
[アルメーはやっぱりアーミーのことじゃないかな]あの夜フランツさんが言ってた「アルメー」という言葉が帰国後も引っ掛かっていました。[あのボロボロの紙切れは、娼婦を買うチケットじゃないかな。軍人だったフランツさんは何かの理由で使わなかったんだ。それを長いこと大事に持ってた気がすんだけどな]
疑問を解くにも調べようがありません。ヒトから聞いたり雑誌やテレビで見聞きする程度のもので、やはり限りがありました。
わかったことは、戦時中ヨーロッパのほとんどの国の軍隊に公娼制度があったことです。もちろん枢軸国側のドイツ、オーストリア、ハンガリーにもありました。
公娼制度導入のきっかけとなったのは、ヨーロッパ遠征中のナポレオン軍の兵士の間に性病が蔓延したことによります。性病に感染した兵士の士気は低下し、作戦にも支障をきたしたのです。フランスに続き、イギリスやドイツ、ヨーロッパ各国も軍隊に公娼制度を導入していったのです。
現在、オーストリアとハンガリーに公娼制度はありません。ただし、ドイツとオランダにはあります。もちろん、戦時中とはまったく意味合いが違う制度として存在しています。
結局、「ボロボロの紙切れ」に結び付くようなことはわからずじまいで、それっきりになっていました。
公娼制度で思い出したことがあります。以前書いたように私はリスボンで出会った日本人青年W君と北アフリカからギリシャまで一緒に走りました。W君の居候先が日本人の露店商グループでした。リスボン滞在中たびたび彼らと飲食をともにしました。
露店商は、東欧を除く(ビザ、取締り、購買力などの問題で東欧は商売にならないそうです)ヨーロッパ各地でお店を出しています。現地リポーターみたいなもんです。
アルコールが入ると、ついついソノテの話になります。彼らからハンブルグやアムステルダムの「飾り窓」の話も聞かせてもらいました。いずれ現地でお伝えします。
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