ブルックヘッドの住むジンマースバッハからボンまで西へ直線距離で100キロほど、反対に東へ直線距離100キロほどで東西ドイツの国境でした。
東ドイツに関しては日本を発つ前にある程度調べていました。そして、東ドイツでの気ままな自転車旅行は無理だと諦めていました。
当時、日本は東ドイツとも国交がありましたから、仕事などで東ドイツ国内で暮らす邦人が、少なからずいました。家族や知人が彼らを訪問するとなると、結構手続きが面倒でした。
ビザ申請はもちろん、当局へ旅行日程や宿泊先を提出しなくてはなりません。これは受け入れ先も同じで、双方で当局への申請が必要だったのです。
旅行会社が主催する小規模な東ドイツ観光ツアーもありましたが、訪問先や宿泊ホテルなど、かなり制約がありました。一昔前の中国ツアーと同じ、いやそれ以上に厳しかったかもしれません。
ほかにも貧乏旅行者の大きなネックになっていたのが、共産圏お決まりの強制両替です。東ドイツの強制両替は1日あたりいくらというものでした。
金額は年々アップしていき、1983年当時は〈ビザ申請費用5DM+滞在日数×25DM (約2,500円)〉になっていました。東西ドイツの物価格差は5倍ほどでしたから、実質1日1万円以上ということになります。
これまで私が最も高いと感じた強制両替がアルジェリアの1ヵ月1,000ディナール=230$で、1日あたり日本円で約1,850円です。物価格差を考慮しなくても1日2,500円という東ドイツの強制両替がいかに高いかわかります。もちろん再両替はできませんから、使いきらないとオストマルクと呼ばれる東ドイツマルクは紙切れになってしまうのです。