「アンネの日記」は日本でもよく知られています。当時、世界の約50ヶ国で合計1,300万部以上発行されていました。発行までのいきさつを改めて記してみます。
アンネはユダヤ人のフランク一家の次女としてのフランクフルトで生まれました。
1933年、首相に就いたヒトラーがユダヤ人への迫害を始めると同時に一家4人はアムステルダムへ移り住むことになります。アンネ4才の時です。
そして、父親オットーが香辛料の卸売りを始めたのが後に「アンネ・フランクの家」と呼ばれるアムステルダムのこの建物です。
1940年にオランダは降伏し、ドイツの占領下となります。この頃からオットーは隠れ家生活の準備を始めます。
もともとこの家は17世紀に商人の家として建てられものです。その頃のオランダの税金や建築費は建物の間口の広さで決められていました。そのためアムステルダムでは間口が狭く、奥行きが長い建物が建てられるようになります。多くの家屋は暗さをカバーするため採光用の中庭を備え、その奥に別棟を建てました。
一家が暮らしたこの家にも裏側に別棟がありました。オットーはその別棟へ少しずつ隠れ家生活に必要な家財を運び入れていったのです。
1942年7月、姉マルゴットに強制労働命令が下るのを期に一家は隠れ家生活に入ります。その1ヶ月前、アンネの誕生日にオットーから贈られた日記がいわゆる「アンネの日記」です。
その後、商売仲間の一家3人と歯科医師が加わり計8人での隠れ家生活が始まりました。食料品の差し入れなどを協力したのはオットーの事務所の元従業員たちです。
1944年、密告者により8人はゲシュタポに捕らえられてしまいます。宝石、貴金属などは没収され、全員ポーランドのアウシュビッツへ送り込まれます。
母親はアウシュビッツで餓死。姉マルゴットとアンネはドイツ国内の収容所に移送されます。ゲシュタポに捕まってから半年過ぎた1945年3月、二人ともチフスで亡くなります。マルゴット15才、アンネ13才でした。
8人のうち生き残ったのは父親オットーだけでした。進攻してきたロシア軍によってアウシュビッツの収容所から解放されたのです。
アムステルダムに戻ったオットーは自分一人だけ生き残ったのを知ります。そして元従業員が運び出してくれた物の中に没収されずにすんだ「アンネの日記」を見つけたのです。
1947年、日記はオットーによってアンネが日記につけたタイトルそのままに原題「Het Achter-huis(隠れ家)」として出版されました。中には2年間にわたる隠れ家での生活ぶりが綴られています。