ダム広場に戻ると多くの人で溢れていました。
ストリート・ミュージシャン、ジャグラー、パントマイムにアクロバット曲芸師などの大道芸人を目当てに人が集まってきたのです。それら観客の中には気に入ったパフォーマンスに対していわゆる投げ銭を差し出す人もいました。
こちらの写真はダム広場に面した王宮です。もともと世界に誇れるようにと建てられた市庁舎でした。その後、進攻してきたナポレオン軍によって内部を改装され、王宮として使われるようになりました。今では公式行事に使用されるだけでオランダ王室の居住地は別にあります。この王宮は一般に開放されており誰でも見学できるようになっています。
オランダと日本との関わりは歴史の授業でも習いました。バテレン追放、キリシタン弾圧をかかげ鎖国を続けていた江戸幕府が唯一貿易を続けていたのがオランダです。蘭学などを始めとする西洋文化の入口として長崎の平戸は有名です。
きっかけは1600年に大分に漂着したオランダ船でした。当時、豊臣家の五大老のトップ家康はキリスト教の布教を欲しないオランダに貿易を許可したのです。
漂着船の航海長イギリス人のウィリアム・アダムスそしてオランダ人の航海士ヤン・ヨーステンはともに日本人の妻をめとり帰化します。日本名を三浦按針(みうらあんじん)と耶楊子(やようす)と名乗りました。東京駅前の八重洲の地名は耶楊子か住んでいたのが由来になっています。
日頃何気なく使っている言葉にもオランダ語由来のものが多くあります。「おてんば」「やんちゃ」「ブリキ」「ガラス」「オルゴール」などなど… あげたらきりがありません。面白いところでは「半ドン」があります。
長く友好的だった両国の関係が変化したのが第二次世界大戦時の日本軍におけるオランダの植民地、インドネシアへの進攻です。
日本の大義は東南アジアにおけるヨーロッパ諸国による植民地からの解放です。インドネシアでは民間人を含む13万人以上のオランダ人が収容所へ送られ、風土病や食糧難による死者は2万人を超えたといわれています。
大戦後、オランダは再び植民地化を図りますがインドネシア国民がそれを許しませんでした。すでに自国独立の意識が高まっていたのです。
私には記憶に残っていることがあります。1971年、ヨーロッパ歴訪中の昭和天皇がオランダを訪問した時の出来事です。市民から卵を投げつけられたのです。魔法瓶が投げつけられた時には乗っていた車の窓ガラスが割れました。
ニュースで知った私は「えっ、天皇陛下に卵が… まさか」そんな感じでした。後に植樹された木が切り落とされる事件も起きました。すでに戦後四半世紀が経過していましたが、当時のオランダ国民の一部にまだ根強い反日感情が残っていたのです。現に1989年の昭和天皇の崩御の際の「大喪の礼」にオランダ王室は自国民の感情を考慮して出席しない旨を伝えてきました。
状況が変わったのが1991年のベアトリック女王の国賓として来日した時の気持ちのこもったスピーチがきっかけだと言われています。
2000年、現在の今上天皇皇后両陛下が国賓としてオランダを訪問した時にはインドネシアの収容所で家族をなくした遺族の前でこれまた気持ちのこもったスピーチを10分にわたりされました。
再びオランダと日本と友好関係が始まったのはオランダ王室と日本の皇室によるところが大きいようです。
2013年にベアトリックス女王が退位しましたが、翌年長男のアレキサンダー国王が来日した際の長崎の平戸を引用したスピーチにも両国の未来思考は引き継がれていました。