[やっぱ、自転車は短パンだよなぁ]天気がいいこともあり昨日今日と二日間、昼間は短パンで走っていました。
[ちょっと曲がってるな]昼飯後の休憩時、片側に歪んだリア・キャリアを直そうと両手でキャリアを持って力を入れたその瞬間でした。
「ブキッ」、オランダで溶接したばかりの箇所が剥がれてしまいました。その歪みというのもオランダでの溶接時に生じたものと思われます。
[う~ん、失敗した。やるんじゃなかった]修理後も振動と荷重で溶接部が剥がれ、その都度直してきた箇所です。後悔しても始まりません。いつものように針金でキャリアを固定し、修理をしてくれる所を探すことになりました。
幸いにもセーヌ川河口の大きな港町 Le Havre(ル・アーブル)のすぐ手前でした。とりあえず街まで行けば、自転車店なり溶接工場なり見つかるはずです。
ル・アーブルはモネを始めマネ、ルノワール、ドガ、セザンヌなど印象派の画家にゆかりのある所です。その中心人物クロード・モネは5才から19才までこのル・アーブルで暮らしていました。その後も父や親戚の暮らすル・アーブルをたびたび訪れては港の風景を始め、セーヌ川対岸の港町 Honfleur(オンフルール)や北に位置する Etretat(エトレタ)など近隣の街の風景などを描いていました。
ル・アーブル港の日の出を描いた「印象・日の出」はモネがホテルの窓から見た風景です。当初その風景画は今までの絵画と違う手法、タッチだとして評価を得ることはありませんでした。
しかしモネや同じ系統の彼らの作品は次第に世間一般に受け入れられていきます。そして象徴的な絵画「印象・日の出」を用いて彼らは印象派と呼ばれるまでになったのです。
モネも他の印象派の画家たちと同様に北斎や広重らの錦絵の影響を受け、同じような構図や色使いの絵を描いています。ル・アーブルに寄港するオランダ商船から貿易品の包み紙としての錦絵を手に入れたのではないかといわれています。
ル・アーブルはノルマンディー上陸作戦終了後も抵抗するドイツ軍を壊滅するためにイギリス空軍を始め連合国軍の爆撃を受け、市民にも多くの犠牲者が出ました。12,000戸の家屋が破壊され8万人もの人が家を失い、およそ街の8割を消失したそうです。
大戦後、建築家オーギュスト・ペレは街の再建計画を委託されます。結果、20年の歳月をかけてル・アーブルは近代的な調和のとれた街として見事によみがえりました。
2005年「オーギュスト・ペレによって再建された都市」としてル・アーブルは世界遺産に指定されています。これには「歴史的にどうか」という意見もあったようですが、この先年月を経過していけば何でも古くなっていきます。