香港は香港島と九龍半島、その他新しい香港国際空港やディズニーランドがある最大の島ランタオ(大嶼山)を始めとする大小230を超す島々で形成されています。
私が訪れたころの香港はまだイギリス直轄の植民地でした。香港島と九龍半島の間にあるのがビクトリア港です。当時、海岸線の埋め立てが行われてはいましたが、後にテレビで見て九龍近くの島が陸続きになっているのには驚きました。今も埋め立ては続いているようなのでまだまだ海岸線の様子は変わっていきそうです。
19世紀初め、インドを植民地にしたイギリスの次なるターゲットは清、つまり中国でした。中国との貿易が思うようにならなかったイギリスはインドからアヘンを中国に持ち込んだのです。反対する中国との間で起こったのが「アヘン戦争」です。
二度にわたる「アヘン戦争」に勝利したイギリスは南京条約と北京条約により、それぞれ香港島と九龍半島の一部を永久割譲、後に九龍地区の北側の新界をも99年間租借したのです。そのほかにも上海港を始めいくつかの港を開港させました。ヨーロッパの帝国主義、植民地主義の象徴が香港なのです。
もっとも中国へ派兵するや否やのイギリス議会での採決は、271対262 と僅か9票差でした。イギリス国内にも「正当な理由なき戦争はすべきではない」という意見が少なからずあったのです。第二次世界大戦中、香港はイギリス領から日本領へと移りましたが、日本の敗戦により再びイギリス領へと戻されました。
イギリスが香港を植民地にしたころの香港島と九龍半島の人口は合わせてもまだ数千人程度でした。ところが中国国内で戦争が起こるたびに本土から多くの人々が逃げるように香港へと流出したのです。つまり大陸混乱の受け皿が香港だったのです。私が訪れた1983年当時で人口数530万超、現在は約750万人となっています。
共産党軍と国民党軍の戦いでは上海や広州など中国各地からお金と技術、そして頭脳も香港へと流出していきました。「香港の繁栄は上海人によるものだ」という人もいるくらいです。
イギリスにも嬉しい誤算がありました。割譲した香港島周辺は南シナ海沿岸には珍しく深い海岸でした。それは大型船の寄港を容易にし、貿易港としての立地に適していたのです。
後はご存じのように世界有数の金融、貿易の中心として香港は発展、繁栄を遂げていったのです。
1997年、租借の期限がきて香港は一括して中国へ返還されました。イギリスが租借したのは新界だけです。アヘン戦争によって永久割譲した香港島と九龍は返還する必要はありませんでした。しかし新界の北には旧国境(?)に接して特区の深圳が控えています。すでに香港自体が周辺を含めて大きな経済圏となっており、新界から切り離された九龍や香港島の発展は考えられなかったのです。それにもまして現代社会が分割返還を許さない状況にありました。