日本にいた頃、同僚の台湾人Cさんに「日本語はどうやって勉強したの?」と聞いたことがあります。「最初は日本のテレビアニメや漫画本を見て覚えました」との答えでした。確かにアニメや漫画から簡単な言葉や文字が想像できます。加えてCさんは「でも、台湾の年寄りは私より日本語を上手にしゃべりますよ」とも教えてくれました。ですから台湾を旅行中、日本語を話す台湾の人に出会ってもそれほど驚きませんでした。
ところが前回記したお年寄りたちは違っています。日常的に日本語で会話してるのです。話を聞いてそれなりに理解ができたものの、さらに知りたくなって帰国後に調べてみました。
日清戦争に勝利し、台湾を割譲した日本は台北に台湾総督府を置き本格的な統治を始めます。当初抗日運動が強く、当然のように軍出身の武官が総督の任にあたります。統治開始から26年経過した1921年、台湾全土が落ち着き平穏が続くようになると今までの武官に変わり、内務省出身などの文官が総督の任に就きます。台湾の日本化のための教育に力が入るということでしょう。
当時は日本人子供向けの小学校、台湾人(漢人)の公学校、原住民の教育所と三つに別れ、小学校と公学校は6年間、教育所は4年間、日本語による初等教育を行っていました。
1929年になると中学では日本人と台湾人の垣根が取り外され共学に移行します。同時に初等教育も日本人、台湾人と民族によって分けられていたものが「日常的に日本語を使用する者」と「そうでない者」とに分けられるようになり、台湾人の子供でも日本の小学校で学べるようになります。
そして1936年、徐々に怪しげな(戦争)足音が近づく中、再び総督は軍出身の武官に戻ります。それでも台湾の初等中等教育は終戦まで続き、最終的な就学率は日本人ほぼ100%、台湾人70%以上という当時のアジアの最高水準でした。
私が日常的に日本語を使用する台湾人にあったのは1983年のことです。当時、あの3人がお年寄りに見えましたが、かりに皆さん60才だとすると、1936年に総督が武官に戻った時には皆さん13才です。つまり、それまで平穏な台湾で、おそらくそうであろう教育熱心な日本人教師のもとでのびのびと小学生として勉強できたのではないでしょうか。もし皆さん65才だとしたらその期間は中学にまで及ぶことになります。あのオトウさんの自慢気で嬉しそうな「私の先生は……」は、[子供の頃の楽しい思いでの一つだったんだろうな]私にはそう思えるのです。
台湾人だけではありません。原住民の間でもしっかりと日本語による会話は確立されていきました。先生がいない地域では駐在所のお巡りさんが先生の代わりを努めたそうです。同じオーストロネシア語族に属する原住民の間でも長い年月を経て、いつの間にか部族間の言語の共通性がなくなり、住んでいる村が違うと互いに話す言葉がわからないのです。それゆえ部族間の共通語として日本語が広く活用されていったそうです。