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九州(1)-[1]: 福岡から吉野ヶ里古墳、有田、西海町へ

「人道トンネル」で九州側へ。郵便受けのような料金箱に自転車の通行料20円(徒歩は無料)を投入して、エレベーターで地下50mまで降ります。長さ780m、地下鉄の長~い連絡道みたいなもんです。自転車に乗るのはダメ、押して歩きます。真ん中へんの白線を境に「山口県」と「福岡県」のペイント、九州への一歩です。

福岡では早めに安宿、カプセルホテルを探します。というのも北海道で出会ったバイクライダーのK君から「博多に来たら連絡下さい。一緒に飯でも食べましょう」と誘われていたのです。
カプセルホテルでひとっ風呂、サッパリしてから自転車で街へ。K君と会う前にやりたいことがあります。博多といえば明太子、その明太子を道中お世話になった方々にお礼として送るつもりでいました。「一宿一飯」の恩義というヤツです。街のアチコチに聞いたことのあるような明太子のお店があります。ということで、適当にお店を選んで配送を依頼。

K君とは7時に地下鉄の入り口で待ち合わせ、ところが待ち合わせ場所へ向かう途中で原付バイクの彼とバッタリ。そのまま私の希望で長浜の屋台へと案内してもらいました。どの屋台も地元の人や観光客で満員です。長浜といえばラーメンと思いがちですが、屋台の並ぶ通りの向こうは博多港に面した魚市場、刺身を始め魚料理も充実しています。長浜の屋台は居酒屋です。K君はアラスカハイウェイを走るべく情報収集中とのこと、一杯飲みながらの話が弾みました。

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写真は博多駅です。福岡県とか福岡市とはいうものの福岡駅という駅名はありません。あるのは博多駅、そこには何やら江戸時代からのいわく因縁があるようです。
奈良時代にすでに博多の地名が出てきます。博多は大陸との交易や朝鮮出兵の特需などで商人の町として栄えていきます。まだ福岡という地名は登場しません。

江戸時代の初期、黒田官兵衛(NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」でお馴染み)は、長男の長政とともに那珂川の西にある福崎の地に築城します(筑前国福岡藩)。その際、官兵衛の生まれ故郷の備前国福岡(現在の岡山県の瀬戸内市長船町福岡)にちなんで、福崎を福岡と改名した上で城の名を福岡城とします。ここで博多城としなかった、つまり当然博多城になると思っていた庶民の意に反したのです。それが後々何かともめるもモトとなったのです。結果、那珂川の西が武士の町福岡、東が商人の町博多とハッキリと分けられてしまいます。

明治の初期、廃藩置県の際も博多県ではなく福岡県になります。続く市町村制度の施行でも県令で福岡市とします。翌年、市議会で再び市の名称をどうするか動議にかけられます。人口、議員ともに博多側の方が多く、博多市になるものと思われていました。ところが採決は同票、最終的に議長の一票で福岡で決定します。議長は武家の出身でした。
そんな経緯があり、バランスを取る意味で開通したばかりの九州鉄道の駅名を博多としたのです。
1972年、福岡市が政令指定都市として格上げされる際の区分けで博多区が生まれます。地名としての博多が長い年月を経てやっと復活したのです。

これまで伊達政宗や毛利輝元などその土地ゆかりの武将の銅像を見てきました(この先も加藤清正、西郷隆盛、坂本龍馬など)。ところが福岡には黒田官兵衛、長政父子の銅像がありません。博多駅前にあった武士の銅像は槍と盃を手にした民謡「黒田節」のモデルでした。
博多人形、博多帯、博多山笠、博多弁、博多ラーメン…… そして博多っ子。
どうやら黒田の殿様は博多っ子に嫌われているようです。大河ドラマの官兵衛ブームがあったにもかかわらず、殿様の銅像を設置できない何かが福岡と博多の間にあるようです。

続いての写真は太宰府天満宮です。都からこの地へ流された菅原道真を祀っています。
今年、新元号が「令和」に決まり、その出典元が万葉集の「梅花の歌32首の序文」ということで、太宰府天満宮が脚光を浴びています。というのもその序文を書いたのが万葉集の編者でもあると同時に太宰府長官でもあった大伴旅人ではないかといわれているからです。
天満宮近くの大伴旅人の邸宅で開かれた「梅花の宴」の際に32首の和歌が詠まれたのです。太宰府天満宮の境内には6,000本もの梅の木があり、梅の名所として知られています。梅花が天満宮の紋様となっています。

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太宰府から国道3号線で佐賀県へ。鳥栖で県立高校の先生Nさんを訪ねます。この7年前、アメリカのグレイシャー国立公園からイエローストーン国立公園へ向けて走行中にNさんたち5人と出会い、朝食をご馳走になっていました。皆さん同じサイクリングクラブのメンバー、もっともアメリカ人ドライバー兼ガイドの運転する車での観光旅行中でした。Nさんとは2年前に東京で一度お会いしてますから、二度目の再会になります。

再会後、写真の吉野ヶ里古墳へ向かいます。この年、吉野ヶ里古墳は全国的に有名になります。もともと出土品などから福岡と佐賀にまたがる脊振山地の南側のこの丘陵地帯で弥生時代に人々が暮らしていたとわかっていました。
この地に大規模な工場誘致を計画していた佐賀県は、周辺の本格的な事前調査を開始します。1989年に大規模な集落の跡、吉野ヶ里古墳が発見されます。結果、工場用地は縮小され、本格的な古墳の発掘調査が始まったのです。
すでに写真のような竪穴式住居や高床式倉庫が復元されていました。しかし周辺はまだ発掘作業中、その作業が今も続いているそうです。

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佐賀から競輪場と温泉で有名な武雄へ。ということで、ひとっ風呂浴びて有田へ向かいます。
写真は佐賀駅です。有田といえば白磁で知られる有田焼、次の写真は有田の町外れにある陶石採石場「泉山磁石場」です。この採石場は鍋島藩初代藩主、鍋島直茂によって朝鮮半島から連れてこられた陶工、李参平によって発見されました。それまでの日本の焼き物はいわゆる陶器で、より薄く固い磁器を焼く技術はありませんでした。李参平は磁器を焼くのに適した陶石を鍋島藩の領地内を探し歩き、この「泉山磁石場」にたどり着いたのです。石柱には「李参平発見之磁鑛地」とあります。黄色い陶石は多くの鉄分を含んでいて、より良い磁器が焼けるのです。現在、この採石場は使われていません。今は熊本県天草の陶石で有田焼は焼かれています。李参平は有田焼の陶祖とされ、毎年5月4日に感謝を込めて陶祖祭が催されています。この後、有田の町で明治期の焼き物倉庫を利用した「有田陶磁美術館」に寄ります。

有田から国道202号線を長崎まで走ります。有田を出ればすぐに長崎県、途中で202号線を外れて佐世保港に寄ります。原子力空母エンタープライズの入港、原潜の放射能もれと何かと話題になっており、興味があったのです。
佐世保は活気のある港町ですが、港内に停泊、係留しているのは軍艦と漁船だけです。戦前、佐世保港は日本の軍港でしたが、朝鮮戦争以降、特定港に指定されアメリカの軍港として機能します。そのため漁船を除く商船や客船が停泊するには特別な許可が必要となるのです。安保の地位協定、日本であっても日本方式にできないというヤツです。平成になってやっと大型客船専用の岸壁ができています。

202号線へ戻ります。西海橋を渡ると西彼杵(にしそのぎ)半島です。久しぶりに車の少ない道を走ります。眼に映るのは海と空、海沿いのアップダウンを繰り返して西海町、大瀬戸町、そして外海(そとめ)町へ。現在、西海町と大瀬戸町は周辺と合併して西海市に、外海町は長崎市に組み込まれています。

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写真は佐世保市と西海町にかかる西海橋からの眺めです。ここは針尾瀬戸(針尾は島の名)と呼ばれ、狭いところでわずか170m、大村湾とこの先遠く外洋とをつないでいます。針尾瀬戸は日本三大急潮の一つに数えられています。
続いて外海町黒崎の海辺、角力灘(すもうなだ)に沈む美しい夕日。
2005年、その黒崎の見晴らしのよい丘に道の駅「夕陽ヶ丘そとめ」がオープンしました。やっぱり、角力灘に沈む夕日は日本一(?)です。

次回、長崎から雲仙、島原へと向かいます。

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