沖縄[5]: ひめゆりの塔、東村、辺戸岬へ

11月6日(月)、照国郵船(現マリックスライン)のフェリーは鹿児島港を夕方6時に出港。奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島に寄りながら沖縄の那覇港へ向かいます。丸一日、約24時間の船旅です。現在は沖縄本島の本部港にも寄るので24時間以上かかります。

二等運賃11,800円+自転車2,100円。二等船室はいわゆる大広間、修学旅行生が一緒でほぼ満員状態。乗船早々シャワーを浴びてビールを一杯。

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写真は朝日の奄美大島、続いて徳之島と沖永良部島です。
途中の港で積み荷に手間取り、予定よりだいぶ遅れて夜8時に那覇港へ時着。乗船中に見たテレビでは北海道の冬の訪れを伝えていましたが、そこは沖縄、九州とも違いまだ夏のように感じます。到着が夜になってしまったので、そのまま市内のカプセルホテルへ。

沖縄本島を反時計回りに一周します。まずは那覇から国道331号線を南下、糸満へ向かいます。
沖縄南部は太平洋戦争における沖縄戦の激戦地です。それらを物語る痕跡も多く「沖縄戦跡国定公園」となっています。

沖縄中部の西海岸に上陸したアメリカ軍は南北に別れて進攻、北部は2週間ほどで制圧されます。一方、首里城周辺の日本軍主力部隊はアメリカ軍の攻勢にジリジリ南へと撤退しながらも抵抗をし続けました。結果、アメリカ軍の掃討作戦が終了したのは上陸から約3ヶ月後になります。
沖縄戦では約20万人の犠牲者が出ました。内訳は日本軍人約94,000人、沖縄住民約94,000人、他に連合国軍側の米英軍人約12,500人。沖縄出身の軍人は約28,000人とされていますが、ほとんどが短期間訓練の寄せ集めといわれています。

私同様多くの人がアメリカ軍の沖縄戦におけるカラーの映像を見たことがあると思います。沖縄には「ガマ」と呼ばれる洞窟が数多くあり、天然の防空壕として撤退を余儀なくされた軍人や民間人が隠れ潜んでいました。映像ではアメリカ軍はその「ガマ」の中に火炎放射器を放ち、手榴弾を投げ込んでいます。さらに外に出てきた人に対しても銃撃したとされますが、さすがにカットされたのか編集されたのか見た覚えがありません。他にも逃げ場を失い、海へ身を投げる様子、いわゆる「バイザイ岬」の映像も記憶にあると思います。

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写真は糸満の伊原にある「ひめゆりの塔」です。献花台の奥が慰霊碑です。2枚目の写真は柵越しに撮った慰霊碑前の洞窟「ガマ」です。深さ十数メートルあり、梯子で出入りしていたそうです。

1945年3月末、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒222名、引率教師18名により負傷兵の治療や看護にあたる「ひめゆり学徒隊」が編成されます。
「ひめゆり」のもともとは漢字の「姫百合」で、師範学校女子部の校誌「白百合」と第一高等女学院の校誌「乙姫」を合わせたものでした。
6月18日、学徒隊に解散命令が出されますが、すでに周辺はアメリカ軍に制圧されており、求める逃げ場もないままに多くの犠牲者が出てしまいます。

写真の洞窟は伊原第三外科壕とされ「ひめゆり学徒隊」の生徒46名、教師5名が看護活動をしていた洞窟です。
6月19日、この外科壕も手榴弾などの攻撃を受け、負傷兵を含む総勢96名の内、最終的に生き残ったのは生徒4名、軍医1名でした。

「ひめゆりの塔」の裏手にはこの半年前に完成した「ひめゆり平和祈念資料館」があります。「知覧特攻平和会館」が英霊として重きを置いているとすれば「ひめゆり平和祈念資料館」は学徒隊の活動を通して沖縄戦の無情ともいえる悲惨さを伝えているように感じます。

「ひめゆりの塔」から331号線を東へ1キロ弱、米須に写真の沖縄県立首里高等女学院の看護隊「瑞泉学徒隊」の慰霊碑「ずゐせんの塔」があります。首里高等女学院が首里城の瑞泉門のそばにあったことでこの名が付いています。南部にはその他にも学徒隊の慰霊碑があります。

331号線をさらに東へ2キロ半、摩文仁の丘に広大な敷地を有する「沖縄平和祈念公園」があります。
首里本部から撤退した司令官、牛島満陸軍中将(後に大将)は、6月23日この地の洞窟で自決します。摩文仁の丘の眼下には美しい沖縄の海が広がっています。牛島中将はどんな思いでその海を見たのでしょうか。摩文仁の丘は最後の激戦地として「沖縄戦終焉の地」とされています。また沖縄では6月23日を「慰霊の日」として休日になっています。

平和祈念公園内には30以上の府県の戦没者慰霊碑を始め、団体の慰霊碑も数多くあります。1995年、沖縄戦の戦没者20万人以上の名前を刻んだ「平和の礎(いしじ)」が完成しました。「いしづえ」が沖縄の方言では「いしじ」となるそうです。
高さ1.5mほどの屏風のような黒御影石に軍人、民間人、国籍を問わない戦没者の名が刻まれて並んでいます。
私が沖縄を訪れたのは1989年、まだ「平和の礎」は完成していません。ただし、黒御影石が並ぶようすを目にしていました。刻まれた名前を指で擦りながら何やら語りかけている人の姿を思い出します。おそらく当時の黒御影石が「平和の礎」の始まりかモデルとされたように思います。祈念公園内には他にも様々な施設があり、沖縄県民の憩いの場にもなっています。
この先は海岸線を北上、太平洋を望む与那原ビーチでテント泊。

国道は329号線に変わり、東側海沿いを中城村(なかぐすくそん)、具志川、石川、金城町と走ります。金城町には米軍基地キャンプ・ハンセンがあり、街道沿いにはバーなど米兵向けと一目でわかる飲食店が並んでいます。
午前、午後と2回のシャワー(にわか雨)を「気持ちイイ」と感じながら宜野座、辺野古と走り抜け、与那原から約90キロ、東村(ひがしそん)の平良のビーチでテント泊。

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県道70号線を北上、平良から約60キロ先、沖縄の北端、辺戸岬を目指します。
写真は赤土の中を行く県道70号線です。アップダウンが続き、道路沿いにはこれといった物もなく、よりきつく感じます。周囲を写真のようなうっそうとした木々で囲まれた中を走ります。車の通行はほとんどなく、たまに休暇中のアメリカ海兵隊員と思われるオンボロ車とすれ違うぐらいです。半日走っても信号はありませんでした。
そして最北端、辺戸岬周辺の海です。与論島まで海をはさんで20キロちょっと、ボンヤリ見えたような……。

次回、沖縄の西海岸を南下、小さな離島へ渡ります。

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