「4月25日橋」のさらに西のベレン地区に、リスボンを訪れた人が必ず立ち寄るといわれる「ジェロニモス修道院」と「ベレンの塔」があります。ともに、1983年に世界遺産に指定されています。
16世紀に建てられた「ベレンの塔」は、当時リスボン港に出入りした船の監視塔です。その近くのテージョ川沿いにはバスコ・ダ・ガマがインドに向けて出航したとされる桟橋跡があり、そこにリスボン観光のパンフレット写真によく出てくる大航海時代を象徴する「発見のモニュメント」が建っています。
エンリケ航海王子を先頭に左右に探検家や科学者などが並び、後ろのほうにフランシスコ・ザビエル(1506-1552)の像もありました(ザビエル像の頭はハゲてはいませんでした)。高さ50mほどの記念碑下の石畳にはモザイクでできた世界地図が描かれ、ポルトガルが世界各地を発見した年が記されています。[あれっ? 日本は1541年になってる。1543年のポルトガル人種子島漂着、鉄砲伝来じゃないのか?]
大通りをはさんでモニュメントの反対側には「ジェロニモス修道院」が見えていました。バスコ・ダ・ガマ(1460?-1524)の棺も安置されている修道院は、大航海時代ポルトガルが海外から得た莫大な富で建てられており、その豪華さと荘厳さは一見の価値があるように思えました。
ポルトガルと日本ってどうなの?
リスボン市内の博物館や美術館を訪ねてみると、日本に関する記述や展示品がいくつかあります。日本国発見に関しては1541年の豊後(大分県)と1543年の種子島と二つに別れていますが、その辺はあまり気にしていないようです。日本にとっては初めて遭遇した西洋人ですが、当時のポルトガルにとって日本は世界の中の一つの小国にすぎなかったようです。
時は戦国時代。土地を追われた敗残兵や戦禍に巻き込まれた人々など(少女たちもいたといわれます)がキリシタン大名からポルトガル商人へ奴隷として売られたという暗い歴史があります。(1万人は下らないといわれる日本人奴隷、南米にも複数の日本人奴隷がいた記録があるようです)
中国経由の生糸や絹織物、日本からは銀や刀剣などが輸出され、長崎を中心に貿易が盛んだったようです。今に続く南蛮文化は現在の日本語にも数多く残っており、パン・コップ・タバコ・ボタン・テンプラなどなど、キリがありません。
宣教師フランシスコ・ザビエルは国への最初の書簡で「日本人は読み書きができる者が多く教育水準も高い、戦略に長けた好戦的な武士が治める国。国土はそれほど肥沃ではない」と報告しています。つまり、ザビエルは日本を植民地にできないと思ったようですが、当時のポルトガルもスペインもアジアの果てまで送る兵もその力もなかったのではないでしょうか。
「宣教師はスパイだ」という人がいます。ローマ教皇の命を受けてキリスト教の布教に励んだ彼らですが、「異教徒は奴隷にしてもよい」これが本当に当時のローマ教皇の教えならば、スパイとして利用された宣教師もいたのではないでしょうか。
一方、種子島の鉄砲伝来の翌年には日本製の火縄銃の試作品ができ、30年も経たない1570年ごろには何千丁もの改良型の火縄銃を持つ戦国大名も出てきました。どうやら、当時の日本は世界でも有数の火縄銃の保有国になっていたようです。
秀吉の時代の「バテレン追放」、家康の時代の「キリスト教の禁止」、そして後のオランダやイギリスによるポルトガル、スペインに対する「キリスト教の布教による日本の植民地化」というあらぬリークにより江戸幕府は「鎖国」へと踏み切りました。
交易は長崎の出島でのオランダ相手のみとなり、200年以上たった開国後の1860年に「日葡和親条約・日葡修好通商条約」が結ばれるまで、ポルトガルとの関係は絶たれてしまいます。
歴史の授業で学んでいればこそ、日本人のポルトガルに対する思い入れは少なからずあるように思います。そのあたりをポルトガル人に話しても「へえ、そうなんだ。でも、ずいぶん昔の話だよね」と、あまり興味を示してくれませんでした。もっとも、それがポルトガル人らしい良さなのかもしれません。