往路は照国郵船のフェリー、復路は大島運輸(現マルエーフェリー)のニューあけぼの丸 6,500 t 、2ヶ月前に就航したばかり、朝8時の出航です。
写真は与論島、周辺を珊瑚礁に囲まれた海は沖縄にも負けず劣らず美しいといわれています。往路は日没で写真が撮れず改めての一枚です。雨混じりの風は風速20mと強く、フェリーは次の沖永良部島の和泊港には接岸できませんでした。
11月16日の朝8時半、10日ぶりに鹿児島港へ。この先は日豊本線と並走する形で鹿児島市と北九州市を結ぶ国道10号線を走り宮崎、大分へと向かいます。
♪「花は霧島 煙草は国分 燃えて上がるは オハラハー桜島……」
「おはら節」を口ずさみながら錦江湾沿いを気分よく走ります、といいたいところですが桜島の降灰で目がチカチカ。
写真は国分を過ぎた10号線沿いから撮った錦江湾です。桜島からは相変わらず噴煙が上がっています。この日は宮崎県の都城でテント泊、やはり沖縄に比べると寒く感じます。それにしても10号線の交通量の多さには閉口です。
都城から宮崎へ。交通量の多い10号線を避け、多少アップダウンのある国道269号線を行きます。宮崎の手前で269号線を外れて「青島」へ。
青島は周囲1キロちょっと小さな島、橋を渡って行けます。島の中ほどにあるのが写真の「青島神社」です。おとぎ話「浦島太郎」の元ネタである神話の海幸彦、山幸彦にまつわる神様を祀っています。縁結びの神様として知られており、退位された上皇陛下も皇太子時代に妃殿下とともに訪れています。神社の周りは波によって砂岩のみ削られた奇観、その名も「鬼の洗濯板」です。
宮崎では東京で一緒に仕事をした知人の二人を訪ねるつもりです。ところが彼らは霧島へ慰安旅行中、出社する月曜日まで大淀川の河川敷で二日連続のテント泊、夜は冷え込みます。写真は宮崎駅。高く伸びているのは県の木フェニックス、大正初期に市内の公園に初めて植えられましたが、今では街道沿いはもちろん、市内のいたるところで見られます。
宮崎から日向へ、風さえなければ日射しは暖かく感じられます。右手に時おり日向灘を望みながら旭化成の街、延岡の五ヶ瀬川沿いの公園でテント泊。
延岡を過ぎると10号線と日豊本線は山深い中を並走していきます。県境の宗太郎峠を越えると右手に日豊本線の宗太郎駅が見えます。いよいよ九州の最後の大分県に入りました。宗太郎の地名はこの地の役人、竹田藩の洲本宗太郎によります。
一旦、佐伯に下ると海岸線を行く日豊本線と別れ、10号線を臼杵市野津町の「風連鍾乳洞」へ。
風連鍾乳洞は距離こそ500mと短いものの間口が狭いため内部は風化しておらず、乳白色の鍾乳洞は日本一美しいといわれています。
この日は同じ野津町の総合運動場「吉四六(きっちょむ)ランド」でテント泊。
吉四六というと呑兵衛はすぐに二階堂酒造の麦焼酎「吉四六」を思い浮かべますが、大分ではトンチ名人で民話の主人公でもある「きっちょむ」さんとして知られています。そのトンチ名人がこの野津の庄屋である廣田吉右衛門です。吉右衛門が「きっちょむ」になまったのです。
朝、出発時に吉四六ランドの工事作業員のオッさんからサツマイモの差し入れがありました。昼飯は少なめの水でゆでて蒸かしイモ、晩飯は炊き込みご飯にしました。臼杵の街へ下る途中「臼杵磨崖仏」へ。
臼杵磨崖仏は土地の長者が娘の死を悼んで平安時代から鎌倉時代にかけて山の中腹の岩場に彫らせたといわれています。大小様々な石仏が合計で60体ほど、4ヶ所の石仏群として点在しています。
写真はその中の一つ、岩肌に13体の仏像が並ぶ古園石仏群の中心、大日如来の仏頭です。この仏頭は石仏の本体から落下しており、この時は台座に乗せられていました。現在では石仏群は写真のような立派な御堂によって風雨から守られています。後に落下していた仏頭は本体に戻され、この6年後の1995年、臼杵磨崖仏はまとめて国宝に指定されています。
次回、別府から国東半島を巡ります。